老いても病んでも回転ずし

体力の衰えは知的生活で補おう。老いても病んでも例え病床にあっても十分楽しい生活は送れます。

健康基準と標準幻想の罠

 「病気も障害も老化もボケも、みな個性だ」。だからそれに抵抗し、脱出することばかりに拘って人生をやり過ごすよりも、その状態を受け入れて「中途半端な‘今’を楽しんで生きようじゃないか」と言うのがぼくの変わらぬ主張です。
みんないろんな症状を持って生きているのです。個性だから‘健全’を基準にする必要はないのです。
 そもそも日本の医療がこの健康基準の考えを基に成り立ち、それに合わせて治療し、薬を出す。私はこの医療の根本の図式に異議を申したい。

 例えば年寄りの「ボケ」は「認知症」と病名を付けて治療に当たることになっています。しかし私の周りにいる老人を見るに、ボケたりボケなかったり、あるいは特定の事に限ってボケたり又は特定の事には大変しっかりしている。これが「普通のお年寄り」です。
それを頼りなくもイカがわしい認知症テストなるものでもって病気の判別をする。
私が「それは個性だ」と言う程度でも「病気の判定」が下ります。こうして必ずしも必要でない治療が始まるのです。これが基準医療の弊害です。

 老人の側としても介護認定審査の時,、「あっちも弱った、こっちも弱った、それもできない」と言って、なるべく重い判定を得ようとします。「介護認定傾向と対策」、これが案外多いんです。

 実は「ぼけの認定」は年寄りにとっては、社会の荒波から外してもらえる案外「都合の良い隠れ蓑」になるんです。認定を受けると介護サービス業者がまぶれ集ってきます。
こうして必要でもない介護サービスを受ける仕組みになっているのです。

病院も同じことです。大層に診てくれて多くの薬を出してくれる医者ほど繁盛します。
この「健康基準の標準幻想」が“医療社会主義”を支え、医療福祉業界を繁盛させる打出の小槌になっています。この小槌の紐を切りましょう。

               丹波老子(oiyan)