老いても病んでも回転ずし

体力の衰えは知的生活で補おう。老いても病んでも例え病床にあっても十分楽しい生活は送れます。

生きるアート

 単に命だけあればよいと言うものではない。やはり「人が生きるとは」為すとか考えるとかの「行為を伴なう主体」であってこそ尊いのです。
ある人のサイトで生きるとは「可能性を形にすること」と結論されているが同感。
「形にする」とは何かと言うに「表現」だと思う。
絵を描くとか工作をするとか植物を育てるなどはもちろん「形にする」分かりやすい行為だが、別に物を作り出さぬとも、文章を書く、人を思いやる、あるいは考えるだけでも人の特色ある表現行為でしょう。
人の可能性と表現は実に多彩であり、各自がそれぞれの状況の基で能力表現に取り組んでいる。他者はたとえ共感できなくても、各人の取り組みを温かく見守ってあげねばならない。この多様性の尊重こそ自由主義社会の、広く言えば生命界の根幹であろうと思います。

 だが「表現」である以上、身近な人一人でもよいから他者に認知してもらう必要があろうと思う。やはり人間が生きているということは「可能性の表現」を通して最小限の命の交流は必要だと思う。
病人であろうと寝たきりであろうと命がある限りは「他の命との交流」があってほしい。老いても病んでも何らかの「生きている証」を伝えてほしい。
命の交流は対人間に限らなくても他の動物であっても植物であってもよい。
何らかの命の交流さえ確認できるなら、全力で助けてあげてほしい。

 私はここまで生きるとは「命の表現と交流」が必要と論じていますが、このことの奥には、交流の可能性を全く絶った生命の尊厳について、つまり単なる延命行為についてはこれを否定する見解を持っています。このことはいずれ深く掘り下げてみたいと思っています。