老いても病んでも回転ずし

体力の衰えは知的生活で補おう。老いても病んでも例え病床にあっても十分楽しい生活は送れます。

タオイスト

 老子の言う「文明の毒」ととにもかくにも折り合いをつけて生きていく外はない。
世俗のなかにゆったりと自然体で立ちながら、その姿に深い孤独と憂愁の影を落とす。
楽しみを共有することは苦手だが異を唱える訳でもない。

 老子は自ら「我は愚人の心なり」と語っている。
ここで言う「愚」は「知」以前の愚ではない。「知」の限界を悟った「愚」である。あるいは「知」を突き抜けた「愚」と言ってよい。
この愚人はただの庶民の喜怒哀楽には心底越えがたい溝が生じる。そこの孤独と哀愁。
それでも自分を是と主張しないこと。「曲全」身を屈して残生を全うする。

 曲全は決して女々しい敗北主義ではない。弱者が自らの弱さを逆手にとることによってしぶとく逆転を図る生き方である。
考えようによってはこれほど図太い生き方はないであろう。
そのためには何でもかんでもYesしか無い人間でなく時と場合によっては「ノー」を言える自分を確立しておくこと。
捨てて減らしてその先にある「無為」。

 老子の言う「無為」の中身は何か、これが無知無脳とは違うことを明記すべし。
自体にはそのまま対応できる能力を有しながら思い煩いに捉われない、何事も括淡に対処する。
そもそも日々対処の難しい問題を作らない。
タオ「道」を体得した人物は完全であることを願わない。だからほころびが出てもつくろわない。
頭の想念から離れ、無為無策、自然体、これが老子の態度であり、我が遁世の身の範とするところです。

              丹波老子(oiyan)