老いても病んでも回転ずし

体力の衰えは知的生活で補おう。老いても病んでも例え病床にあっても十分楽しい生活は送れます。

直(ジカ)に生きる

 頭の支配とか、比較とか、妄想とか、要するに言葉のバーチャルに捉われない生き方が‘風流に生きる’ということですが、これを更に端的に言うと‘直に生きる’と言うことになります。

 この直(ジカ)の感応は、動物も植物も大自然の理をも貫きます。
そこにはうれしい気持ちや美しく感じる心、更には生命の成長力や免疫力などをも共通します。

 「神の世は‘直に生きる’ように創られている」のです。
この世を言葉で再編成する必要はありません。全ての惑いの元になります。


直の感応が芸術を生む 
ちょっと俳句で、
「古池や蛙飛び込む水の音」 誰でも知ってる芭蕉の句ですね。
この俳句は「静か」と言う言葉を使わずに、あくまでも閑寂なリアリテイを映しただけであるが、そこに言葉で説明する以上に“静かさの実相”が我々に迫る、故に名句なのです。

 もう一つ俳句を例に‘直(ジカ)の感応’に触れてみる。
① 「木々の枝うつりて冬の水しづか」
② 「冬の水一枝の影も欺かず」
この二句をみてどう思われますか?どちらが良い句だと思われますか?
文句なく②が良いです。①は既存の言葉を並べただけで通念の説明の域を出ていません。
②は静かと言う言葉を使わず言葉の通念を超えた実相に迫っています。
静かさと冬の水の透明感がジーンと迫ってきます。だから迫力が違いますね。

 つまり、「静か」と言う言葉に付与された「静かの意味」はあまりにも普遍的で実態を表すものとは言い難い。言葉と言うものは須らくそういうものなのです。
だから言葉だけで反射的に解った気になっている世界は薄っぺらいのです。
薄っぺらいだけで済んだらよいが往々にして害を及ぼすこともある。(政治スローガンや主義信条など大体が言葉の短絡現象だと思っている)

 われわれは色んな面でもっと‘直の感応’に意を注がなければならない。
これを為し得たなら我々は“芸術的に生きられる”のです。 これが“風流に生きる”と言うことです。

               丹波老子(oiyan)