老いても病んでも回転ずし

体力の衰えは知的生活で補おう。老いても病んでも例え病床にあっても十分楽しい生活は送れます。

☆ 投了の美学 ☆

 私の趣味は囲碁です。趣味というより50年来囲碁を人生の糧として生きてきたと言えます。
囲碁をご存じない方も多いでしょうから少し解説してみます。
囲碁は簡単に言えば地の囲い合いで、相手より一目(交点のこと)でも多く囲った方が勝ちで、ルールも至って簡単です。
ルールと言えば次の3つぐらいです。
①二人が白石黒石を持ち、交互に手番の者が線の交点に一手一回打つ。
②原則何処に打っても構わないが、息をする交点四方を塞がれた点には打てない。
息をする交点を全部塞がれた石の集団は取り除かれる。 取り除くときのみ四方塞がれた交点にも打てる。
③「コウ」と言って同形反復の禁止があります。以上が囲碁の決りらしい決りです。
 
 こんな単純なゲームなのに「囲碁を覚えたら親の死に目にも会えない」というほどの魅惑的で複雑怪奇な局面が展開して行きます。
 囲碁は人生の戦略そのものだとよくいわれます。なるほど「生きる」ことと「地(現在では金)」をとること、こんな単純な二つの目的を争う、これは碁も人生も同じと言えばそういうことです。
 
 碁も人生も確かに自分が主役のはずなのに局面の進行は自分の思惑を超えて行きます。それでも自分の碁・人生なのだから、随時的確な判断を下し意思決定をしていく必要があります。
 碁の判断は数理的であり、図形的(美形的)であり、且つ戦略的でなければなりません。もう一つ加えるなら「人間性」が要求されるのです。
「欲」はたいてい裏目の結果を招きます。かと言って「消極的」でも駄目です。囲碁は「思惑のバランスのゲーム」なのです。   

 囲碁は自分が打っているのに自分の意思を超えて展開して行くと述べましたが、これは人生も同じことですね。
誰の前にも同じチャンスが訪れているはずなのに中々局面に応じた的確な判断を下すのは至難の業です。それも何十回も連続してベストな選択をして行く者が勝利を掴むのです。
囲碁でも人生でも「その選択の場の状況を掴むこと」が大切です。そしてその場での力関係を分析して一手の着手を決断します。
この状況を掴むことを囲碁では「形勢判断」と言って囲碁の要諦です。

 また昔から多くの武将は囲碁の愛好者であり戦略的にも囲碁を活用し奨励してきました。日本各地から囲碁の天才がお城に呼ばれ殿様の前で囲碁を打つことは最高の名誉でした。こうした中から名人碁処が産まれ、日本の囲碁は空前の隆盛を見ました。
今でも政治家や経済界の指導者層に囲碁を嗜む方が多いよのは頷けます。


<魅惑的な課題>

 今日もう一つ私が述べてみたいことは、「囲碁の美学は“投了”にあり」についてです。
他のゲームやスポーツについては深く知りませんが、私は「囲碁の真髄は投了にある」と思っています。常に自分で形勢判断をしながら局面を進めて行くのですが、その過程でもう「挽回不能」という局面が訪れることがあります。そんなときは潔く投げる(投了する)のです。負けと覚悟しながら、相手の失策を期待しつつ打ち続けるのは品位のない碁です。自らの力で挽回不能と認識したら、相手に結果を示される前に自分の意思で投了すること、それが囲碁の美学というものです。
 他の勝負事では最後まで最善を尽くせという美命の元に相手の失策を呼び込むのも作戦の内と正当化されているようですが、囲碁は違います。相手に止めを刺される前に自決する。この意味で「囲碁の投了は切腹の美学」とさえ言えます。

  さてと、、私は今、「人生の投了」を考えています。まあ今さら挽回しようとは思いませんので、ましてみじめったらしく生き延びようとも思いません。
ガンの治療を拒否して緩和ケアーにて「静かな人生の投了」を考えています。
「美しい投了」これは中々魅惑的な課題です。

               丹波老子(oiyan)