老いても病んでも回転ずし

体力の衰えは知的生活で補おう。老いても病んでも例え病床にあっても十分楽しい生活は送れます。

タオと風流と日本教

 私は10年来「老子のタオ思想」に嵌り、手を変え品を替えて自分も他人にも納得できるであろう論理を探ってきた。まあ「タオ」は宗教ではないので論理を考えるのはそれはそでよいのだが、もうぼつぼつ結論を急ぎたい。(急がなければならない理由があるからです。卒論の締め切りが迫っている。)

 結局タオとは何ぞ。老子は「自然の善なるパワー」と言うのだが、解りにくい。
私もタオとは免疫力だとかBLだとか母性とか民度とか言ってきたがこれも得心できる決定版までには至っていない。 
タオはやはり外国語だし漢字では「道」と書くが、これも日本語の道とは少し意味が違うから益々ややこしい。

 そこで最近「タオとは“風流”のことである。」これを私なりの結論にすることに決めた。この方が日本人には理解し易いのではなかろうか。

 風流は美しい。風流は優しい。風流は欲張らない。風流は威張らない。風流はつるまない。風流は競争を嫌う。風流に金持ちも貧乏もない。風流は自然の偉大さを知っている。風流は根っからのエコである。
この風流を全部「タオ」に置き換えても全く矛盾しません。

 ここで佐藤春夫の「風流論」を引用してみる。
=自然の悠久に比べたとき、自己のあまりのはかなさに愕然とした人間が、その悲劇を自然との一体感によって超えようと努力するところに生まれる境涯が、「風流」にほかならない。「風流」は、ときに、「もののあわれ」とか「無常感」ともよばれ、人間がその意思を最小限にして自然に従順になり、自然に溶け込むことなのだ。=と、

 佐藤が力説するのは、自然の無限・悠久に対する人間の微小・有限という悲劇的な事実を前にして、他の民族は、自然の悠久に対抗できる人間的悠久を樹立しようと努力したり、自然と人間を貫く法則が明らかになれば、人間もまた悠久を共有できるとして、その法則の発見に努力した。
こうした諸外国では、人間を納得させる摂理としての宗教を生むと同時に、自然に対しては力と知恵(科学)をもって挑んだのだった。
 これに対して、日本人がひたすら努力を積み重ねたことは、自然に対する意思的な態度を放棄するということだった。この自然に対する意思の放棄こそが日本人の「風流精神」を生むと同時に、日本人の「美意識」の根底に関わっている。

 日本人は無宗教とよく言われる。しかしこれは違う。
日本には日本教がある。日本人は風流を通して「神なる自然」に徹底的に従順になる。
私はなるべく宗教と言う概念を避けて人生観を構築したかったのだが、風流が日本人の宗教であるとするならばこの宗教観は拒む理由がない。

 日本教は実に見事である。教祖や文字経典は無い。神社仏閣教会もない。講釈を垂れる番人も管理人もいない。迎合の衆も要らない。
ただ自分ひとり自然の内に身を置くだけ。できればここで今自分のやっていること、考えていることを「風流の観点」から見つめ直すだけでよい。何事も風流に処置すれば大体間違いない。「風流を価値観の中心に据える」それが教義なのだ。

 「風流」は言葉で表現しようとすると難しい。だから外国人には解ってもらいにくいけれど、日本人なら誰でも理解できる概念である。しかしこれを忘れかけている。 
 現代の日本人は、この風流に支えられた安寧と価値観を取り戻さなければならなりません。
その上地球環境の面からも人間は「風流精神で自然と調和」する必要に迫まばれています。私はこの風流を現在社会に生かす方法を真剣に考えています。

               丹波老子(oiyan)